競馬シリーズ・シッド・ハレーもの4作「大穴」「利腕」「敵手」「再起」を読む

特にきっかけがあったわけではないのだが、ずうっと本棚に置きっぱなしにしていたディック・フランシスの競馬シリーズ再開第1作「再起」を読もうと思い立った。
そうしたら、どうせなら、まだ未読のシッド・ハレーもの第1作も読んでみようかと思い、結局シッド・ハレーもの4作品「大穴」「利腕」「敵手」「再起」を一気読みすることになった。
どのような攻撃を受けても、口数少なく、じっと相手を見据えるシッドはかっこいい。
片手で騎乗するシーンが「大穴」と「利腕」に出てくるが、騎手時代を思い、蘇ってくる騎乗の感覚を味わう姿にぐっとくる。


「大穴」は、レース中の落馬事故で負傷し、騎手を辞めて、だらだらと調査会社に勤務していたシッドが、調査員としての素質に目覚め、新たに生きる道を見出す巻。
「利腕」は、元花形騎手というだけでなく、調査員としても名が知られるようになったシッドが、同時に多数の依頼を受け、調査に奔走する。強烈な犯人の脅しに一時は屈するが、不屈の精神で蘇る。
「敵手」も、犯人の設定とシッドとのやりとりが秀逸。
「再起」は、競馬シリーズ再開第1作。シッドはちょっと人格が変わったように見えるが、恋をしているせいかもしれないので、まあよしとするかということで。


大穴 ODDS AGINST
ディック・フランシス著(1965年)
菊地光訳 ハヤカワ・ミステリ文庫

★ねたばれあり★
競馬シリーズの、シッド・ハレーものの最初の作品。
レース中の落馬事故で負傷し、騎手を辞めて、だらだらと調査会社に勤務していたシッドが、調査員としての素質に目覚め、新たに生きる道を見出す巻。
大障害レースのチャンピオン・ジョッキーだったシッドは、事故により左腕を負傷し、レースに出られない身となった。天職を失い、妻のジェニイとは離婚寸前にあるシッドは、失意の中で2年間を過ごしていた。
シッドは、ある夜、ランドナー探偵社に侵入してきた男を捕えようとして腹部を銃で撃たれる。傷が完治しないまま退院した彼は、義父のロランド卿の屋敷に身を寄せる。ジェニイの父である元海軍提督のロランド卿はシッドと実の息子のように接し、気にかけていたのだった。が、彼はシッドに屋敷の晩餐会への参加を要請しながら、客たちの前で彼を侮蔑し、客たちが彼をいいようにいたぶるに任せる。客の一人、ハワード・クレイが、シーベリィ競馬場の乗っ取りを企んでいるという疑惑があることを知ったロランド卿は、シッドを奮起させその調査をさせようと、敢えて手厳しい手段を取ったのだった。
それまで探偵社で半端な仕事しかしてこなかったシッドは、全英障害競馬委員会に出向いて理事長のバグボーン卿を説得して調査の仕事をとりつけ、本格的な調査を始める。彼がようやくやる気を出し、過去の人脈も利用して調査員としての力量を見せていく様子を読むのは気持ちがいい。そのときどき、競馬場で、厩舎で、騎手であったころの感触や空気をを思い出すのもいい。競馬場に相棒のチコと貼りこみ、パトロールのために久しぶりに馬に乗ってコースを行く場面では、シッドが馬と一体化して高揚した気分で馬を駆る姿に、ぐっと来る。より大きな利益を得るために競馬場を手放そうとする投資家たちには決して分からない、シーベリィ競馬場のコースのすばらしさをシッドは知っている。それは、騎乗の経験のある者と馬だけが知り得ることであり、だからこそ彼は、シーベリィ競馬場を無くしたくないという強い思いを抱くのだった。
シッドものは、2作目の「利腕」を何年も前に読んだのが最初だが、そこで彼はかなり酷くて痛い目に遭う。本作も同様、彼はやはりひどい仕打ちを受ける。そして不屈の強さを見せる。
冒頭の晩餐会から、敵にシッドをみくびらせ馬鹿と思わせる戦法がとられる。敵の一人株屋のエリスだけがシッドの有能さを見破りつつあるのだが、他の面々は彼を過小評価している。最後はクレイがしてやられ痛快ではあるのだが、それでも、シッドのファンとしては、いささか悔しい思いが残るのだった。

大穴 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 12-2))

大穴 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 12-2))



利腕 WHIP HAND
ディック・フランシス著(1979年)
菊地光訳 ハヤカワ・ミステリ文庫

★ねたばれあり★
シッド・ハレーもの第2作。だいぶ前に読んだが、シッドがひどい目に遭うことと、ラストの犯人の言葉しか覚えていない。1作目を読んだので、勢いに乗って再読した。
1作目から10年以上が経過しているが、シッドはそんなに年を取っていなくて、まだ31歳である。元花形騎手というだけでなく、フリーの敏腕調査員として名が知られてきた時期にある。1作目で登場した孤児院育ちの若者チコが良き相棒となっているのがうれしい。
シッドは、大物調教師ジョージ・キャスパーの妻ローズマリイから、馬についての調査を依頼される。有望視されていた馬が、3頭立て続けにレースに失敗し、病気になるという事態が起きた。続く4頭目のデビューにあたって、彼女は大きな不安を抱いていた。キャスパーの厩舎は、シッドが初めて丁稚奉公に出された先であり、シッドはそこで乗馬を覚えたのだった。が、問題となった3頭の馬の記録に不審な点はなく、ローズマリイは周囲の人々からノイローゼ気味にあると見られていた。シッドはさらに、知人の馬主フライアリイ卿から馬のシンジケートについての調査と、ジョッキイ・クラブの保安部長であるウェインライトから部下のエディ・キースについての調査を依頼される。
一方、シッドの元妻のジェニイが、詐欺に会う。ニコラス・アッシュという男にだまされ、架空の慈善事業による通信販売事業を行ったあげく、アッシュは金を奪って行方をくらましてしまったのだ。アッシュを探し出さないと、ジェニイが有罪になる可能性があるという。ロランド卿はアッシュを探しだすよう、シッドに依頼する。ジェニイは、ほんとにいやな女として登場する。悪意の固まりとなってシッドに接し、その態度のとげとげしさは、読んでいてかなり不快だ(最後の方ではちょっとましになるが)。
犯人は早々に正体を現す。
使い物にならないとはいえ傷跡だらけの左腕を有していたシッドは、前回の事件で肘から下を切断され、今は電気仕掛けの義手を装着している。犯人は、シッドに事件から手を引かせるため、彼の残された右腕を銃で撃つと脅迫する。恐怖のあまり、犯人に屈したシッドは、自分を嫌悪し、打ちひしがれる。ローズマリイとジェニイは、そんなシッドの苦しみも知らず、容赦なく罵声を浴びせるのだが、そんな女たちにまたも腹が立つ。
気球レースが唐突に出てくる。前後との脈絡はほとんどなく、ジェニイをだました詐欺師が残していった本に名前が書き込まれていたということで、シッドはジョン・ヴァイキングという男を探す。すると、彼は気球乗りで、シッドはレース会場に行くことになるのだが、シンジケートの調査に絡んだ追手が現れる。シッドは、危険な追手から逃れるためスタート寸前のヴァイキングの気球に乗りこみ、レースに参加することになるのだった。ここだけ違う話のようだが、廃人同様に落ち込んでいたシッドにとって、やたら高度を上げたがる型破りな気球乗りジョン・ヴァイキングとのレースは大きな気晴らしになったに違いない。大空を行く二人の男のやりとりは豪快で気持ちがいい。
また、研究獣医のケン・アーマデイルがいい感じだ。気楽に話ができて信頼しあっている有能な二人の男が、必要に応じてともに仕事をし、終わればまた次の仕事があるまで会わないという間柄がいい。
さて、犯人のトレヴァー・ディーンズゲイトはシッドにとって強力な敵である。ディーンズゲイトが、今は上流階級に属する馬主であり賭け屋だが、生まれは貧民屈であり、シッドと同様、下層から這い上がってきた男であることが、二人の戦いに凄みを持たせる。何も知らないジョッキイ・クラブの理事アラストン卿は、競馬場の観覧席で二人を引き合わせる。この脅迫者と被脅迫者がたまたま顔を合わせる場面はぞくぞくする。アラストン卿の前では紳士然とふるまい、彼がいなくなると、粗野な正体をさらけ出してシッドを脅迫するディーンズゲイトは、憎たらしくも、悪の威厳満載である。
最後の最後での対決では、一方的にディーンズゲイトがしゃべる。余計なことはしゃべらず感情を押し隠して敵を見据えるのはシッドのかっこいいところであり、今回も紛れもなくそうなのだが、ここに限って言えばべらべらしゃべるディーンズゲイトもまた強烈な印象を放つ。見事な対決だ。

利腕 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 12‐18))

利腕 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 12‐18))


敵手 COME TO GRIEF
ディック・フランシス著(1995年)
菊地光訳 ハヤカワ・ミステリ文庫

★ねたばれあり★
シッド・ハレーの3作目。2作目から16年も経っているが、シッドはまだ34歳である(じき35歳になると言っている)。パソコンと携帯電話を使って仕事をしているが、ITはあまり得意ではないようで、携帯電話の盗聴について知人にアドバイスを求め、デジタル化を勧められたりしている。
馬の前足が切断されるという事件が連続して起こる。調査を始めたシッドは、犯人が、テレビの人気タレントで国民的アイドルであるエリス・クィントの可能性が極めて高いという結果にたどりつく。エリスは、またシッドのかつての騎手仲間であり友人でもあった。シッドは自身の調査結果に衝撃を受けながらも警察に報告し、エリスは告訴される。が、マスコミはこぞってエリスを擁護し、シッドは世間から目の敵にされる。中でもザ・パンプという新聞は、シッドに対する辛辣な攻撃を繰り返す。エリスの母が自殺し、シッドを恨む父ゴードン・クィントがシッドを襲撃して殺そうとする。
物語は、こうしてすでにシッドが世間を敵に回して、苦しい状態にあるところから始まる。右腕を骨折してゴードンの攻撃から逃れ、チャールズの屋敷に避難したところで、これまでの経緯が語られるという形をとっている。
被害に遭った馬の飼い主の一人であるレイチェルは、白血病を患う9歳の少女である。助かる望みの薄い彼女は、シッドを慕い、彼が会いに来るのを楽しみにしている。また、シッドは、家族に見放された、保護観察中の15歳の不良少年ジョナサンと知り合う。彼は、ジョナサンから調査における重要な証言を得たのをきっかけに、閉ざされた彼の心を開いていく。バンプの記者キャスケートは、男爵と再婚した元妻のジェニーに取材し、シッドを男として辱めるような彼女の発言を記事に載せる。が、ジェニーはシッドに会ってその発言を否定し、彼に対して抱いていた悪意をなくしたように見える。
シッドは、相変わらず感情を表に出さず、たんたんと調査を進める。所轄署のピクトン警部や、治安判事のアーチイ・カークなど、新たな理解者を得るが、容赦のない誹謗中傷に心中ではひどく傷ついている。
やがて、パンプの記者らはシッドを攻撃する記事を書くのは彼らの本意でないことを明かす。シッドの調査により、エリスの周囲にいる人間たちの利害関係も明らかになってくる。
今回もシッドは、敵の手に落ちて右手を攻められる羽目に。友の残酷な仕打ちに会って、シッドは懇願することなく、ただ繰り返しエリスの名を呼ぶ。快活な人気者であると同時に暗黒の面を持つ男エリスと、苦悩しながら彼を追うシッド。ともに騎手として活躍し騎乗の興奮を分かち合える友人同士の、相手に対するそれぞれの思いに、心が激しく揺さぶられる。シッドをタングステンカーバイト(強固な心を持っているということを表す)と呼んだエリスは、最後は父の魔の手からシッドを守り、自ら命を絶つ。切なく重厚な余韻が残る。

敵手 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

敵手 (ハヤカワ・ミステリ文庫)


再起 UNDER ORDERS
ディック・フランシス著(2006年)
北野寿美枝訳 ハヤカワ・ミステリ文庫

シッド・ハレーの4作目。作者フランシスの妻の死、断筆、訳者菊池光の死などを経て、再開された競馬シリーズの復活第1作でもある。
前作の「敵手」から11年が経過しているが、シッドはまだ38歳である。マリーナ・ファン・デル・メールという名の、癌研究センター勤務の生物学博士でオランダ人の恋人がいる。
シッドは、建設会社の経営者で上院議員で馬主であるエンストーン卿から、調査を依頼される。卿の持ち馬を使って八百長が行われていないか調べてほしいという。彼が馬を預けている調教師のビル・バートンは以前から疑惑を抱かれていた。
その矢先、エンストーン卿の馬に騎乗して勝利を収めた騎手のヒュー・ウォーカーが射殺されるという事件が起こる。レース直後ヒューと言い争っていたビルが殺人容疑で逮捕される。彼はすぐに証拠不十分で釈放されるが、その後自宅で死亡する。現場の状況から警察は自殺とみなすが、シッドは、殺人と判断する。ヒューとビルを殺したのは同一犯であると考え、独自に捜査を始める。が、犯人は、彼の捜査を妨害するため、シッド本人ではなく、恋人のマリーナを襲うのだった。
これまでは、犯人の脅しや暴力に合っても不屈の精神を見せてきたシッドだったが、最愛の恋人を標的にされるという事態に思い悩む。が、マリーナは実にできた恋人、とても勇敢で素晴らしい女性なのだった。シッドの心配を知って、チャールズと話し合った彼女は、シッド・ハレーに脅しは通じないことを犯人が知っているなら、マリーナを脅しても同様であると思わせなくてはならない、という結論に達するのだった。
シッドは、前回の「敵手」のときは35歳になる直前だったので、あれから3年しか経っていないことになるのだが、以前に比べて明らかに、饒舌な皮肉屋になったように思う。全3作と同様、物語はシッドの一人称で語られるが、どうもいわずもがなの余計なひと言が多いように思う。
たとえば、最後に犯人がシッドの家にやってくる場面。 


 私はエレベーターの前までチャールズを迎えに出た。だが、エレベーターに乗っていたのはチャールズではなかった。
≪ザ・パンプ≫の第一面でほほ笑んでいた男だ。
 だが、いまはほほ笑んでいない。
 黒いリボルバーを右手にしっかりと持ち、私の眉間に銃口を向けていた。
 くそ、うかつだった。


この最後の1行は、どう見ても不要であると、私は思う。同様に感じた箇所がいくつもあった。かつてのクールで口数の少ないシッドではないと思わざるを得ない。
これは、作者の歳のせいかもしれないと思えなくもないが、敢えてシッドの立場に立って、恋をしているせいかもしれない、と思うことにした。落馬による負傷以降、辛い目にあってばかりだったシッドが、ようやく素敵な恋人にめぐりあえてちょっと浮かれているのかもと考えれば、まあ、しようがないかなという気持ちになるのだ。
調査はちゃんとやっているし、警官やゴシップ記者と渡り合い、被害者の遺族に思いやりを見せる。賭け店で出会った客と話をするところなどの細部もいい。
前妻のジェニーがまたも登場する。「敵手」の時点でだいぶ軟化していたと思うのだが、最初の方では、シッドはジェニーを避けたがっているし、再婚相手のアントニイのことも嫌っている。やがて、ジェニーとマリーナが顔を合わせることになり、シッドは危惧するが、ジェニーはマリーナに対して大いなる好感を抱く。余談だが、私は、一人の男を愛した二人の女が仲良くなるという展開がどうも好きではない。うふふって感じで、楽しそうに二人で男の話をするシーンなど考えるだけで、ぞわぞわっとする。(たとえば「居酒屋幽霊」とかそんな感じだったように思うし、「紅の豚」で、大人の女性の歌手と美少女整備士が仲良くなるのも気持ち悪かった。)それくらいなら、見苦しく争って男の奪い合いをしてくれた方がよほど潔いと思う。のだが、ことシッドに関していえば、二人の女性が仲良くなってほんとによかったと思ってしまうのだった。「利腕」において、ジェニーの毒の部分を延々と見せられ、彼女なりの苦悩を知らされてきたせいもあると思うが、これこそまさに、シッド・ハレーの人徳というものなのかもしれない。

再起 (ハヤカワ・ミステリ文庫 フ 1-41)

再起 (ハヤカワ・ミステリ文庫 フ 1-41)