映画「風立ちぬ」を見る

風立ちぬ
2013年 日本 126分
監督:宮崎駿
音楽:久石譲、主題歌:荒井谷由美「ひこうき雲
声の出演:堀越二郎庵野秀明)、里見菜穂子(滝本美織)、本庄季郎西島秀俊)、黒川(西村雅彦)、カストルプ(スティーブン・アルバート)、堀越加代(志田未来)、二郎の母(竹下景子)、里見(風間杜夫)、服部(国村隼)、黒川夫人(大竹しのぶ)、カプローニ(野村満斎)

関東大震災から太平洋戦争にかけての時代を背景に、ゼロ戦の設計者堀越二郎の青年期を描く。

東大を卒業して三菱内燃機関(三菱重工)に入社した二郎は、幼いころから夢見ていた飛行機の設計者としての道を突き進む一方、結核を患う令嬢菜穂子と恋に落ちる。
風を駆使した菜穂子との出会いと再会は美しく、時間がないことを知った二人の恋は、深く静かだ。

二郎は設計者で、自分では飛行機を操縦しない。彼自身の飛行は、ほぼ夢の中で行われる。そして、その夢は、イタリアの飛行機設計技師カプローニのそれと交錯する。カプローニは、夢の中で飛行機の素晴しさと凶暴さについて語る。
その内容は、以前私が目にした宮崎駿監督の言葉と重なる。

「星のおうじさま」で知られるフランスの作家サン=テグジュペリの作品に「人間の土地」という小説がある。郵便物を運ぶ小型飛行機の操縦士たちの過酷な任務とそれに対する彼らの誇りや僚友との友情を書いた傑作だ。何年も前に新潮文庫の改定版を買ったとき、宮崎駿監督がカバーイラストを手掛け、あとがきを書いていた。おっ!と思って読んだあとがきの文章が予想外に陰鬱な内容で愕然とした記憶がある。
飛行士であり作家であるサン=テグジュペリや作品への思いがつづられているものだとばかり思っていたら、そうではなく、そこには、飛行機がいかに凶暴なものであるか、戦争中に武器としてどれだけ多くの飛行機が作られ飛ばされ、どれだけ多くの若者が犠牲になったか、といったことが延々と記されていた。
「飛行機の歴史は凶暴そのものだ。それなのに、僕は飛行士達の話が好きだ。」と語り、文末に「(一九九八年八月、アニメーション映画監督)」とあった。

風立ちぬ」は、そのころから監督が抱えていた矛盾をついにアニメ化した作品のように思える。
美しい画面から、戦争の悲惨さを想起することは難しい。
しかし、彼は、敢えて、戦闘場面や軍隊による軍事教練といったシーンを描くことをせず、戦争については、言葉と、飛行機の墓場という夢の中の光景のみに留めた。
「一機も帰ってきませんでした。」という二郎の言葉にどれほどの思いがこめられているのか。
アニメーション映画監督としてできうるだけのことをして、後は観客の想像力に賭けたのではないだろうか。

飛行機好きには飛行機の設計や試運転の話はかなりおもしろい。
私は、飛行機の型とかは全然わからず、今回も二郎が映画の中で作った飛行機が九試単座戦闘機というものであり、零戦の正式名称は零式艦上戦闘機ということなどは、映画を見た後に検索したり、友人の指摘で知ったのだが、飛行機と飛行機乗りの話は好きだ。
また、年代的にもわかりやすい。子どものころ、大人たちはとにかくよくたばこを吸っていたし、よく戦争の話をした。
(さらに個人的なことを言えば、数年前に亡くなった父は、零戦に憧れ、終戦間近に15歳で海軍に入隊した、最後の予科練生というべき少年だった。入隊後すぐ終戦となったので、1ヶ月にも満たない軍隊生活だったが、当時のことを克明に記した自分史を遺している。二郎の作った飛行機が当時の若者たちにどのような影響を与えたのか、そうしたことが歴然とした事実として、かなり具体的に書かれている。私としては、人ごとではないような部分があるのだ。)

そうした時代背景や、菜穂子との恋愛などもあってか、世間では、大人の映画だと言われている。
しかし、それでも、青少年に見てほしいと私は思う。
宮崎駿の新作アニメであれば、老若男女が見に行くであろうし、内容は、表面的には、小学校高学年以上であれば理解できるだろう。
庵野棒読みすぎとか、たばこ吸いすぎでやだとか、飛行機好きでないとおもしろくないとか、戦争のことを知らないとわからないなどと思うかも知れないが、わからないからと言って切り捨てず、わからないなりに、想像力を掻き立てて、漠然とでもいいからこういうことかしらと思いを巡らせてほしい。そして、よかったという人はもちろん、ぴんとこなかった場合でも、その印象ごと見たことを記憶にとどめてほしい。
形にした以上、作品は残る。そのまま記憶の彼方に葬り去られてしまうかも知れないが、何年も後になってまた見る機会があるかもしれない。見る年代とともに印象の変わる映画がある。映画と見る側、ともに年月を経てなし得るものもあるはずだ。