映画「ハプニング」を見る

M・ナイト・シャマラン監督によるSFエコ・ホラー・サスペンス。
ニューヨークのセントラル・パークで、人々が突然立ち止まり、後ろ向きに歩き出し、自らの命を絶つという事件が起こる。やがて、それは怪現象としてアメリカ合衆国東部の大都市から郊外へと広がっていく。
フィラデルフィアで高校の化学の教師をしているエリオット(マーク・ウォルバーグ)は、妻のアルマ(ズーイー・デシャネル)とともに、同僚のジュリアン(ジョン・レグイザモ)から預かった彼の娘ジェス(アシュリー・サンチェス)を連れて、避難する。が、乗っていた電車が途中で止まり、通りすがりの菜園主夫妻の車に同乗させてもらう。草木の茂る田舎の十字路で各方面から逃げてきた人々に出くわした彼等は、どちらへ向かっても安全な場所がないことを知り、車を降りて、人が少ない場所へと移動を始めるのだった。
本作は、物語の「起承転結」で言えば「結」のない映画、いや、「起」だけの映画かも知れない。謎は提示されるだけで、解決したとは言えないのだ。環境問題というグローバルでタイムリーなテーマが絡んでいて、朝日新聞にも「高慢な人類への警告」という見出しで監督のインタビューが載っていたのだが(8月1日夕刊)、だから「起」だけでいいのかというとそういう事でもないと思う。予告編が恐そうだから見に行ったのにがっかりした、というBBSやブログで見かける感想は、それはそれでもっともだと思う。「サイン」以降、広げた風呂敷が畳みきれないとか、もったいぶった割には真相がしょぼすぎるなどと評する声もよく聞く。
が、私は、シャマラン監督の作品には、そうしたことをものともしない魅力があると思う。
朝日新聞の記事にあった「ヒチコックの『鳥』が、見えない恐怖を描く参考になった」という監督の言葉は興味深い。「見えない恐怖」、つまり画面にあふれる「不穏な空気」に強く引かれる。私は、このシャマランの映画独特の雰囲気を味わいたくて、映画館に行く。
「サイン」や「ヴィレッジ」にあった「不穏な空気」は、「ハプニング」にもあふれていた。田舎の十字路で立ち往生する人々の周りで揺れる草木。森の木々のざわめきや、草原を吹き渡る風が、とにかく怖い。
私としては、この草木の怖さで充分なのだが、今回は、直接的に恐い場面も随所に見られる。冒頭のセントラル・パークのシーンはショッキングだが、それに続く工事現場のシーンもすごく恐い。人々の凄惨な死に様が、何パターンも描かれるので辟易してしまう人もいるかも知れないが、じっくり全部見せるでなく、完全に画面から外すでもない見せ方はやはり独特である。かと思うと、保身のため殺人を犯す人々は、影と声だけでしか出てこなかったりもする。
登場する人々も地味におもしろい。菜園主や若い上等兵、二人の少年、孤独な生活を続けてきた老婦人など、エリオットらが行く先々で出会う人々は、それぞれにユニークだ。が、私が最も印象的に思った人物はエリオットの妻アルマだった。自意識が強くて、人生における自分の選択に迷いを抱いている、悪人ではないのだが、ちょっと扱いづらい若い女性。こうゆう美人て確かにいるよなという感じが実にリアルである。その彼女が少しずつ変わっていく様子も興味深い。
エリオットが授業で講釈していた消えたミツバチの謎や、植物に話しかける菜園主が言うところの「彼等」が放つ「毒素(chemicals)」や、ジュリアンがパニック寸前の女性に出題する膨大な勢いで数が増える数学の問題や、避難してきた女性の娘が電話の向こうで最後に口にする「微分(calculus)が・・・」という謎の言葉や、田舎の草原の中に立つ全てが作り物のモデルハウスなど、何かの暗示のような要素があちこちに見られ、いろいろと想像を膨らますことができそうな映画である。