「泣き虫弱虫諸葛孔明 第壱部・第弐部・第参部」を読む<第参部は2013年1月追記>

泣き虫弱虫諸葛孔明 第壱部
酒見賢一著(2004年)  文春文庫
孔明を、変人呼ばわりならともかく、「泣き虫弱虫」呼ばわりしている「三国志」など読みとうないわと思っていたのだが、読み始めてみたら、弱虫泣き虫というよりは奇人変人扱いという感じだったのでまあいいかもと思って読み進むうち、あまりのおもしろさ、おかしさに止まらなくなった。
独自の視点から描いた酒見版三国志なのだが、同時に、抱腹絶倒のおもしろ三国志読本といった面も持っていて、何度も笑った。

最初の方で、作者は、吉川英治の「三国志」も、横山光輝の漫画版「三国志」も読んでいないと書いている。和訳された「三国志演義」をつらつら眺めたとある(どの訳かは明記していない)。
そのへんの事情が、全く以て僭越ながら私も同様である。巻末の細谷正充氏の解説によれば、近代日本における「三国志」には、吉川英治の小説「三国志」、横山光輝の漫画「三国志」、コーエーのゲーム「三国志」の三つの柱があるそうだが、私はどれもちゃんと読んで(プレイして)いない。吉川版は八巻もあったので、もっと短いのはないかと探して、社会思想社の現代教養文庫で村上知行訳による「完訳三国志」(それでも全五巻ある)を見つけて読んだ。その後で、吉川英治岩波文庫の「完訳三国志」(小川環樹、金田純一郎訳、全八巻)も読んでみようと何度か試みたのだが、どちらも1、2巻あたりで止まってしまった。ゲームはやらないし、横山光輝の「三国志」も巻が多すぎるので赤壁の戦いの前後5巻だけを読んだ。結局、最初に五巻全部を読み、その後秋風五丈原までを読み直した村上知行訳の「完訳三国志」が、私にとって最初から最後まで読んだ「三国志」ということになる。吉川三国志は、日本人向けにアレンジされた口当たりのよい筋の通った読み物になっているのだろうなと思いつつ、ぶっきらぼうで唐突で、心理描写とか戦争の状況とか、なんでここでこうなるのかといった気配りのきいた説明がなく、全体のバランスもあまり考えてないだろうと思われる、大陸的な身も蓋もなさにあふれた完訳版がけっこう気に入っている。

そうした個人的な読書事情のせいもあってか、本書を読むと、随所で目からうろこの思い、そうだったのかとうなづくことしきりだった。
徐庶が登場したとき、この人が孔明かと思ったというのも、ついうなづいてしまった。彼が軍師としての手腕を見せるのは、曹操配下の曹仁軍相手の合戦だけだったのも、孔明の戦法に似ているというのも読んでいて思い出した。劉備が、臥竜鳳雛の二者を得れば向かうところ敵なしといわれ、その二人を得ながら、結局勝てなかったじゃんというのもうんうんと思った。鳳雛って誰?と思ったり、出てきてもあんまり活躍しなかったよなと思った覚えもある。
三国志には、とにかく人がたくさん出てくる。いろいろ出版されている三国志人物辞典でも買えばいいのかもしれないが、そこまでする気もなく、漠然と読み流して、結局何度読んでも、ほんの一握りの主要人物しか頭に入らない。
曹操が人材とみるとすぐ欲しがったというのはよく知られていることらしいが、この曹操配下の武将や軍師もとにかくたくさんいて、誰が誰やら解らなくなる。特に軍師が把握できないのだが、彼らの名前を挙げてどういう人か説明してくれているのが、ありがたかった。
ところで、私は梟雄と聞いて思い当たる男が3人くらいいるのだが、「三国志演義」の曹操の梟雄ぶりには心底痺れるものがある。しかし、本書において梟雄呼ばわりされているのは、私が読んだものでは仁徳の固まりのように言われている劉備玄徳その人である。梟雄、梟雄と連発している。
劉備の軍勢を、一つの国というよりは、清水の次郎長一家みたいな侠客の集まり、「劉備一家」と呼んでみたり、劉備が口にする立派な言葉と裏腹な心の声を書き出してみたりと、やりたい放題である。
孔明を巡るエピソードについても真相解明(?)は容赦なく、なぜ臥竜先生と呼ばれ、その住居が臥竜崗と呼ばれるようになったか、孔明の姉の舅でありこれもかなりの奇人である隠者龐徳公(ほうとくこう)が孔明に嫁を取らせるためにどのような画策をしたか、醜女とされる妻の黄氏と孔明との甘い甘い新婚生活の様子や、彼らと同居していいようにこき使われる弟の諸葛均の惨めな境遇など、三国志で知られる事柄の裏事情として書かれていることが、いちいち可笑しい。

壱部は、「三顧の礼」により、孔明劉備軍に加わるまでが描かれる。完訳本では、劉備孔明に会うまでのもったいのつけ方がそれはもうすさまじく、引っ張りに引っ張ってようやく会見を果たす。劉備が二度目に孔明を訪れる際、唐突にミュージカルと化した一連の場面の謎解きが、もう大笑いである。劉備らの行く先々で、男たちが歌を歌っているのはなぜかということを理に叶うように追求していけば、このような結論に達するのだろう。

そして、これも巻末の解説にあるが、作者は物語の途中で量子論的ブレについて言及している。
突然「量子論」という他ジャンルでなじみ深い言葉が出てきて驚いたのだが、量子論の拡散と収縮という現象は、妙に文系人間の哲学的考察を刺激するところがあるのではなかろうか。(といっても、私は物理や数学といった理系の学問のみならず、哲学の本もちんぷんかんぷんでほとんど読めないのだが。)
作者がここで量子論を持ち出したのは、一度「三国志」を書いてしまうと、自分にとっての三国志が確定してしまうということである。
あれこれ解釈のできる物語が、たったひとつの解釈に限定され自由を失ってしまうのではないかと危惧する。
だからといって、書かないでああでもないこうでもないといっていれば可能性は無限に広がるが、それはあくまで可能性で、いつまでたっても実体を持たない。
が、解説にもあるように、三国志は、そうしたことすべてを内包することのできる稀有な物語であると言える。つまり、拡散した重ね合わせの状態でありながら、それぞれが実体を持った作品として受け入れられるだけの、度量の大きさを持っているのである。


泣き虫弱虫諸葛孔明 第弐部
酒見賢一著(2007年) 文春文庫
三顧の礼により出蘆した孔明が、劉備軍に加わり、大所帯となった劉備一行を率いて曹操軍から逃れるまでを描く。趙雲張飛が活躍する、巻末の長坂坡の戦いが読みどころ。
壱部に引き続き、容赦なくつっこみを入れる軽快な語り口はますます好調である。劉備軍の無秩序・無計画ぶりには止めどなく拍車がかかり、呉においてはすっかり東映実録路線の様相を呈してきている。孔明が亡き父の後継ぎ争いで窮地に立った劉き(劉表の息子、漢字が出ませんが王偏へんに「奇」です。)にアドバイスをする場面で「エヴァンゲリオン」(よく知らないのだが、「残酷な天使」といえばそれしかないと思われる)を引き合いに出すに至っては「捨て身やな、自分」と思わずこっちがつっこみたくなるほどの突っ走りぶりである。
孔明は、劉備からあれだけの熱意を持って登用されながら、提案した策はことごとく退けられ、週休3〜4日で劉備本営に通勤していたという意外な実情が暴かれる。この時期に孔明は、鳳統と呉の山林地帯に野宿して、植生の研究にいそしんでいるのだが、それくらい暇だったらしい。
やがて、曹操軍はついに南攻を開始し、劉備軍は荊州を発って江陵と見せかけて実は夏口に逃れる。だが、その際十余万もの民衆が付いてくるという前代未聞の事態に陥り、劉備を乗せた恐竜戦車(孔明が妻の黄氏に命じて作らせた堅固な箱型牛車)を先頭に1日たったの5キロという信じがたいのろさで進む。巻の後半は、こうした劉備軍の移動の異常さと長坂坡の戦いに至るまでを描くことに費やされている。「三國志」でも「三国志演義」でもわずかな表記で終わる部分に、著者はあえてこだわって、こと細かに検証し、突っ込みまくっていく。趙雲張飛の伝説についても言いたい放題だが、たっぷり書いてくれているのは結局うれしい。


<追記:2013年1月19日>
泣き虫弱虫諸葛孔明 第参部
酒見賢一著(2012年) 文藝春秋
第3部は、「三国志演義)」最大のヤマ場と言ってもいい、赤壁の戦いを中心に描く。
赤壁の戦いは、正史においては、ほとんど記述がなく、実際どのような戦いであったか定かではないという。「三国志演義」においては、孔明が大活躍する見せ場であるが、呉の降伏論者たちと孔明の舌戦も、3万本の矢を得る秘策も、七星壇での風を呼ぶ祈祷も、すべて「三国志演義」において作られた話とされる。実際は、曹操軍と呉軍の戦い、曹操の敵は周愈であって、劉備孔明が出る幕はなかったという。が、「演義」の面白読本の一面も持つ本作は、あくまでも「演義」の内容に即して展開する。
周愈は、若く有能な武将として登場しながら、孔明に対しては理由もなく一目見て殺意を抱いてしまう。颯爽としたイケメンの周愈が、孔明に対してのみ間抜けになるという演義の構図がそのまま描かれている。これに関しては、なんか、こう、もっと、秀逸な解釈がほしかったような気もする。
冬のさなかに東南の風を得るために孔明が行う風招きの祭りは、他の作家が避けて通る、三国志作家の「鬼っ子」のようなものだと著者は言う。「演義」の孔明は、七星壇を建て、大仰な儀式を行い、風を呼ぶ祈祷をする。昨今の三国志では、孔明は気象予想士としての知識を持っていて、この時期に一瞬東南の風が吹くことを知っていたのだとするものが多く見られるというのは確かで、映画「レッドクリフ」でもそうだったと思う。本作でも周愈は孔明が風を吹く日を知っているのか、本当に風を呼ぶのか、知識か術かと魯粛に問う。が、著者は、この時期に一瞬東南の風が吹くことを知っていても、正確な日にちまではわかるまい、呉軍が望む日の夜に偶然吹いたとするのはいかがなものかということで、敢えて孔明の風招きの術を取り入れてみせる。孔明のオカルトパワーをありとすれば、その方が筋は通るのだ。これはこれで潔い判断だと思った。
呉の人々の「仁義なき戦い」ぶりは最初は可笑しかったが、ずっと続くとだんだん煩わしくなってくる。特に魯粛広島弁はもういいから標準語でしゃべってくれ!と叫びたくなるのだが、乗りかかった船でこれで通すしかないんだろうなと思いつつ、途中でいつのまにか標準語になっていても多分大丈夫、みんな気づいてもなにも言わないんじゃないかとも思うのだが、そうでもないんだろうか。
ということで、赤壁の戦いに関しては、量子論的なぶれが少ないのか、著者による奔放な解釈はあまり見られなかった。漢中の戦い、荊州の争奪、南征、北伐とこれからの展開に期待したい。

泣き虫弱虫諸葛孔明〈第1部〉 (文春文庫)

泣き虫弱虫諸葛孔明〈第1部〉 (文春文庫)

泣き虫弱虫諸葛孔明〈第2部〉 (文春文庫)

泣き虫弱虫諸葛孔明〈第2部〉 (文春文庫)

泣き虫弱虫諸葛孔明〈第3部〉

泣き虫弱虫諸葛孔明〈第3部〉