「流しの公務員の冒険 霞が関から現場への旅」を読む(感想)

流しの公務員の冒険 霞が関から現場への旅
山田朝夫著(2016年)
時事通信社

(※以下の感想文は、アマゾンのレビューにも短縮して書いてます。)

地方自治体での現場の仕事に惹かれ、霞が関を出た元キャリア官僚の仕事談。
著者の山田氏は、東京大学を出て、1986年に自治省に入省し、まもなく鹿児島県に出向した。2年後に霞が関に戻り、衆議院法制局から自治省選挙課へ。その後大分県に出向し、久住町の「地球にやさしいむらづくり」担当となる。96年に東京に戻り、自治大学教授となるも、1年後には再び久住に戻り、キャリア官僚として初めて町の一般職につく。そこから市町村を渡り歩く自称「流しの公務員」となる。
本書は、氏が4番目に赴任した自治体、愛知県常滑市での市民病院再生の話から始まる。市の財政難にあって、赤字の最大の原因となっていた病院は、新病院設立か廃院かの岐路に立たされていた。氏は市の職員の給与をカットしつつも病院スタッフの賃金は据え置いてスタッフのモチベーションを高め、100人会議を開いて住民と病院側との話し合いの場をつくっていく。ファシリテーター(調整役)として両者の間に入って、「コミュニケーション日本一の病院」を目指すのである。氏は、常滑市民病院再生の仕事中に、総務省を辞職し、常滑市の副市長となる。さらりと書いているが、これはかなりの決断だったのではないかと思う。
難しいことや簡単なことを難しく言うのはけっこう簡単だけど難しいことを簡単に言うのは難しい、また事実とはなかなか小説のようにすっきりせず、込み入っているものである。が、山田氏は、さぞややこしかったであろう話を、実におもしろく明解に語ってくれる。
本書の半分は常滑市民病院再生の話であるが、他に、霞が関自治省選挙課での激務の日々の様子(海部俊樹内閣時の小選挙区比例代表制導入のための公職選挙法改正に関わるが、この法案は提出後廃案となる)や、久住町での失敗談やワークショップ(参加体験型グループ協議の場)を取り入れたバイパスルートの決定や温泉のある公民館建設の話などがあり、どれもみんな興味深い。

さて、ここからは、本書のメインの内容とは直接関係ないのだが、映画ファンの立場からちょっと書く。
本書では、「流しの公務員」の立場について述べるときに、3回、映画の引用が出てくる。最初は「第1章病院再生」の終わりの方で「七人の侍」を、その後「終章」と一番最後の「おまけの物語」部分では「七人の侍」を元に作られたアメリカの西部劇「荒野の七人」を引用している。どちらの映画でもラストシーンで、悪党どもをやっつけた後(問題を解決した後)、侍あるいはガンマン(ファシリテーター)は、村(地域)を去るにあたって、勝ったのは自分たちでなく村人たち(地元の人たち)だとつぶやくのである。
さて、「侍」かガンマンか、実はこれはけっこう大事なことではないかと思うのである。
一番最後の引用において、著者の山田氏は、「クリス(ユル・ブリンナー)とヴィン(スティーブ・マックィーン)は村を去る。」と、役者名だけでなく役名も挙げている。つまり、「荒野の七人」のそれなりのファンであるという証。というか、山田氏は1961年生まれで、私とほぼ同年代、おそらく小中高生のころにテレビで毎晩のようにやっていた洋画劇場を見て育ち、心あるアクション映画ファンなら「荒野の七人」は好きになったはずで、だからこそ7人のガンマンの名前くらいはこの歳になっても憶えているのだ。そして、ひょっとしたら私がそうであったように、「七人の侍」を評価してやまない親たちの世代から「黒沢の安易な物まねだ」とか「アメリカの西部に置き換えるのは無理がある」とか「武士だから最後の言葉に重みがあるのだ」とか、さんざん言われ、せっかくの幸せな気分をぶちこわされるという苦い経験をしたかもしれない。「七人の侍」が素晴らしい映画であることにはなんの異論もないが、しかし、「荒野の七人」では7人のガンマンたちがみな個性的で魅力があり、それぞれに事情を抱えている様子が丁寧に描かれているし、山賊の頭カルベラ(イーライ・ウォラック)も自分なりに筋を通す男だし、アメリカ映画らしいよさがたくさんあった。
ということはさておき、ここ、この本では、侍はそぐわない。侍が「勝ったのは我々ではない。百姓たちだ。」というのは、上の者が下の者に対していう言葉。でも、西部はみんないっしょである。ガンマンは強いし憧れる子どももいるが、侍と農民ほどの隔たりはない。国と県と市町村は同列。現場に魅せられ、霞が関を出た「流しの公務員」山田氏には、さすらいのガンマンの方が似合っていると思うのだった。

流しの公務員の冒険 ―霞が関から現場への旅―

流しの公務員の冒険 ―霞が関から現場への旅―