小説「永遠の0」を読んでから、映画「永遠の0」を見る

永遠の0
2013年 日本(公開 東宝) 144分
監督・脚本・VFX:山崎貴
原作:百田尚樹「永遠の0」
主題歌:サザンオールスターズ「螢」
出演:宮部久蔵(岡田准一)、佐伯健太郎三浦春馬)、佐伯慶子(吹石一恵)、清子(風吹ジュン)、松乃(井上真央)、長谷川(平幹二朗)、井崎(濱田岳橋爪功)、武田(三浦貴大山本學)、景浦(新井浩文田中泯)、大石賢一郎(染谷翔太/夏八木勲)、小山(上田竜也
原作の小説を読んでから映画を見た。
太平洋戦争中、極力戦闘を回避し、生きて家族のもとに帰ることをなによりも大事に考えていた航空兵がいた。しかし、彼(宮部)は、特攻を志願する。彼はなぜ死を選んだのか。
という謎を、現代の若者であり宮部の孫である健太郎が探っていく。健太郎は祖母の松乃の葬式で、祖父の賢一郎とは血がつながっておらず、実の祖父である宮部は終戦の年に特攻で戦死したと聞かされる。彼は、姉の慶子と共にかつて宮部の戦友だった老人達に会い、話を聞いていく。宮部を臆病者と呼ぶ長谷川、病床にあって宮部のことを切々と語る井崎、会社の重役で忙しい身であるにも拘わらず健太郎のために時間を割いて宮部の話をする武田、ヤクザの親分で義侠心にあふれた景浦らである。
この映画で、零戦を見るのが楽しみだった。山崎貴監督なら零戦をかなりいい感じで撮ってくれるだろうと期待し、期待に違わず、いい感じだった。
気合の入った零戦の映像を別にしても、原作の映画化に当たって、話のつくりや映像の出し方に工夫がされていると思った。
原作には、「特攻は自爆テロだ。」というジャーナリストが登場する。映画では、健太郎が友人に誘われていった合コンの席で、若者が小馬鹿にしたように同じことを言う設定になっている。
老人たちの話も順番を変えている。慶子と健太郎は景浦には一度追い返され、その後再び健太郎が一人で訪ねていくという展開になっている。
が、私は、原作を読んだ後に宮部という人物に対して抱いた違和感を、映画でも感じてしまった。
映画を見ながら、原作者が描きたかったのは、特攻へ行けと言われ誰もが志願をする、あるいはせざるをえない状況の中で、それを拒む兵士がいたらどうなったかということなのかしらと思った。特攻は拒否しようと思ったからって拒否できるものなのか。それは興味深いテーマだと思ったが、しかし、彼は結局特攻を志願する。そして、宮部がなぜ特攻を志願したかは、原作でも映画でもメインテーマとなっているにも関わらず、原作でも映画でもあいまいだ。死んでいった仲間たちへの思いから特攻を志願するということになっているが、そのへんの葛藤は描かれない。十死零生の特攻など作戦と呼べない、だから特攻には行かないという景浦の方がよほどわかりやすいが、景浦にしたって特攻を拒否し続けることが可能だったかどうかは疑問である。
宮部は、凄腕の戦闘機乗りだけど戦闘は好まない、常に物静かでやんちゃさに欠けるが、同僚を思いやる男気があり、生きて帰りたいのは自分の命が惜しいというよりは家族を守るためである。とても立派な人物であるが、しかし、彼が戦争や国や飛行機に対してどのような思いを抱いていたかは不明である。私には、彼は時代と乖離しているように感じられた。原作を読んだ時もそうだったのだが、映画は時間SFものを撮ってきた山崎監督でもあることだし、宮部を平成の若者がタイムスリップしたものだとすれば、奇想天外だけど違和感はなくなるかもしれないと思った。(健太郎が高校生くらいだったら、未来の彼が過去に行っちゃったことにして、ハインライン的輪廻の蛇のような展開になったりして、などと余計な想像を巡らせてしまったりもした。)
多くの人が感動したと述べており、劇場で見ていたときも周囲からすすり泣く声が聞こえた。にも関わらず、私はどうも宮部を生身の人間としてとらえきれなかった。

以下は、昨年秋に読んだ原作の感想です。
ちょっと内容がかぶります。

永遠の0(ゼロ)
百田尚樹著(2006年)
講談社文庫
司法試験浪人の健太郎は、フリーライターである姉の慶子から太平洋戦争終戦60年記念企画の協力を頼まれる。2人が慕っている賢一郎は義理の祖父であり、彼らの実の祖父は終戦間際に特攻で戦死した宮部久作という海軍航空兵だった。慶子は宮部がどのような人物だったのか興味を持ち、彼の人となりや戦死に至るまでの足取りを調べようと思い立ったのだった。健太郎は、戦友会に連絡をとり、存命中の元兵士たちを訪ね、戦争の話を聞いて回る。
宮部のかつての戦友たちは、当時の戦況や軍隊生活や航空隊の実戦の様子とともに宮部の言動を思い出して語る。宮部は、戦時下の軍にあって、新妻と娘のもとに生きて帰りたい、死にたくないと公言していた。戦闘機乗りとしての腕は超一流だったが、果敢で無謀な攻撃を試みることはなく、仲間からは臆病者と呼ばれていた。その彼がなぜ特攻に志願したのか、という謎を追うことで物語は展開していく。
圧倒的に強烈な事実を目の当たりにすると、フィクションの魅力がすっかり色あせてしまうことがある。下手にドラマにするよりは、生の記録に直に接した方が迫力がある。それを敢えてフィクションにする意味はどこにあるのかと考えると、作者にとっては自分の思いをこめられるということ、そして読者にすれば格段に読みやすくなるということがあるのかなと思う。
26歳で亡くなった宮部は、2013年まで生きていれば94歳である。戦争を知る者はだいぶ少なくなってしまった。こんなことがあったということをこのような形で多くの人が知るのは意味があると思う。ラバウルガダルカナルという地名は知っているし、そこで戦争があったことも知っているが、どのような戦況にあり、具体的にどんな戦いが繰り広げられていたかについてはあまりよく知らなかった。そうしたことを知ることができたのは、たいへんよかった。
が、事実とそうでない部分との区別は読む側が判断しないといけないと思う。小学生の国語の問題に、「事実を書いている文には○を、感じたことや思ったことを書いている文には△をつけましょう。」というのがあった。「遠足に行った」は○、「楽しかった」は△である。
本作には、「特攻隊はテロリストだ。」というジャーナリストが出てくる。極端な物言いをする嫌な奴として描かれるが、しかし、戦時中の記憶を語る老人たちも、途中から事実ではなく、自分が「感じた」ことを語っていることがある。それは作者の捉え方であることを、ちゃんと認識して読んだ方がいいと思う。(例えば、艦隊が引き返したのは事実、幹部が臆病だったからだというのは一つの捉え方であると思う。)
そして、老人たちが語る戦争の話と宮部という男にまつわる話が、私の中では、どうにもうまくかみ合わなかった。ドキュメントフィルムの間に再現ドラマがさしはさまれるように、ふたつが乖離して映ってしまう。凄腕の飛行機乗りなのに、家族を大事にし、特攻を否定する。今風すぎるのか。「僕たちの戦争」というタイムスリップ戦争小説があった。回天での特攻を余儀なくされる青年と現代のフリーターの青年が入れ替わってしまう話である。宮部が、平成の世からタイムスリップしていった青年なら、納得しただろうか。いや、それでもキャラが立ちすぎているような気がするのだった。 (2013.11)

永遠の0 (講談社文庫)

永遠の0 (講談社文庫)