映画「アメリカン・スナイパー」を見る

アメリカン・スナイパー AMERICAN SNIPER
2014年 アメリカ 132分
監督:クリント・イーストウッド
原作:クリス・カイル「ネイビー・シールズ 最強の狙撃手」
脚本:ジェイソン・ホール
出演:クリス・カイル(ブラッドリー・クーパー)、タヤ・カイル(シエナ・ミラー)、マーク・リー(ルーク・グライムス)、ビグルス/ライアン・ジョブ(シェイク・マクドーマン)、スクワール(エリック・ラディーン)、ドーバー/ケビン・ラーチ(本人)、D/ダンドリッジ(コリー・ハードリクト)、アル=オボーディ師(ナヴィド・ネガーハバン)、ムスタファ(サミー・シーク)、“虐殺者”(ミド・ハマダ)、ジェフ・カイル(キール・オドネル)
イラク戦争で160余名もの敵を射殺した狙撃手クリス・カイルの人生を描く。
カイルは、少年時代、「人間には、羊と狼と番犬の3種類のタイプがある。おまえは番犬になれ。」と教える父に育てられ、ロデオ・カウボーイを経て、アメリカ海軍に入隊、シールズの兵士として戦場で活躍する。狙撃手として卓越した能力を発揮した彼は、アメリカでは伝説の狙撃手として称えられ、イラクでは「ラマディの悪魔」と呼ばれて賞金首となる。
カイルは、2003年のイラク戦争開始以来4度戦線に赴くが、映画は、その4度に渡る戦闘と、アメリカでの彼の生活、バーで知り合った女性タヤとの結婚、二人の子どもの誕生など彼の家庭の様子を描いていく。同時にそれは、夫と妻の視点が交互に描かれることにもなる。多くの敵の命を奪い、戦友を喪ったカイルは、戦闘に取り憑かれ、心に傷を負っていくが、そうした夫を持ったタヤの心労も並大抵のものではない。子どもを身ごもり出産し育てていきながら、常に孤独と不安を抱えている。妊娠中に戦場の夫と電話をしていたらいきなり銃撃音がして通話が途絶えるなど、妊婦として極力あってほしくない状況だし、戦場から帰国している夫が家に直帰しないでどこかでうだうだしていると知った時だって心配でたまらなかっただろう。
戦争が終わり、帰国したカイルは、家族との生活に馴染む努力をする一方、退役兵たちとともに過ごすことで自分の中での折り合いをつけていく。
淡々として、乾いていて、ひっきりなしに銃撃音が飛び交うにも関わらず、映画の印象はひどく静かである。おそらく伝説の狙撃手についてその都度大騒ぎしたであろうマスコミについての描写も皆無である。無音のクレジットに衝撃を受けた観客も少なくないようである。

見終わったときこの映画をどう消化していいかわからなかった。戦争の悲惨さ、兵士の苦悩や葛藤という現代的なテーマが浮かび上がってくるが、西部劇ファンとして考えると、映画の端々に昔ながらの西部劇の欠片のようなものが見えたと思う。
カイルの戦友の軍葬においてラッパの音が響き渡る中で国旗が畳まれる様子に騎兵隊ものの葬式シーンを思い出したし、棺の蓋に倒した敵の数だけバッジ状の鋲が打ち込まれるのも、父が息子に狩りの手ほどきをするのも、女が戦いに赴く男を止めるのも、殺された友の復讐の念を抱くのも、長距離射撃も、腕利きの狙撃手との1対1の対決も西部劇的だ。彼がふざけてタヤに向ける拳銃は西部を席巻したコルトSAAである。
敵の女性と子どもを狙撃するシーンが話題になっていて、こんなこと古き良き西部劇ではありえないことなのだが、女子供を撃つことをためらうという価値観自体は西部劇的である。(例えば、日本の昔の時代劇では庶民の女性と子供が大事にされているという印象はあまりない。)
そして、「伝説(レジェンド)」である。日本では昨年のオリンピック以後しばらくはマスメディアに乱用されそこら中レジェンドだらけになってしまったが、伝説=英雄というコンセプトはアメリカ西部ではお馴染みのものだ。カイルを殺した男がどういう心情と経緯からそのような犯行に及んだかについては一切触れられていないが、カイルはおそらく無防備だったと思われ、私は額縁を直しているときに仲間のフォード兄弟によって背中から撃たれた西部の伝説ジェシー・ジェームズを思い出してしまった。
乾いた空気感とか空間の広がりとか男が歩いたり銃を持ったりする姿とか、イーストウッド監督が映画を撮る際にはその身に西部劇的手法が染みついてしまっているのじゃないかと思うが、それだけでなく、アメリカという国における思想や文化の根源のひとつとして西部があるのだということも改めて感じた。タイトルの「アメリカン」は単に「アメリカ軍の」という意味ではないと思った。
※シールズ(SEALs)とは、SEがSEA・海、AがAIR・空、LがLAND・陸と、陸海空のアルファベットの頭文字から取られており、そのどれにおいても優れた能力を持った兵士たちによる部隊のこと。