「頑張る」の意味(追記あり:2012.12.8)

(★最近この日記へのアクセスが増えています。毎日のように何人かの方が来てくださいます。それについて、本文の後に追記しました。)

私は、近年の「頑張る」という言葉の、世間での使われ方と嫌われぶりをつねづね残念に思っている者であるが、それについて胸のすくような意見を読んだ。

2011年6月25日付け朝日新聞の「be」(土曜版についてくる)の「フロントランナー」というシリーズに山口スティーブさん(51歳)という旅行会社社長の記事が載っていた。
アメリカ出身の山口さんは日本女性と結婚して日本国籍を取得、東北の旅行会社でボランティアツアーを実施している。
シャベルを担いでがれきの中を行く山口さんの写真に目を引かれて記事を読んだ。中にインタビューが載っていて、ここで彼が「頑張る」という日本語について言及していた。その部分を以下に引用する。

――でも、「頑張る」という言葉が好きじゃないとか。
 日本語の「頑張る」は、「押しつけられた課題に耐え抜く」という悲壮感がにじむでしょ。たとえば受験制度。日本の受験制度は本当におかしい。でも、しかたがない、自分では変えられない、「頑張る」しかない――。そのぶん「結果がともなわなくてもいい」という甘えもにじむ。
 本来の「頑張る」は、自分がやりたい目標に向かうこと。夢に近づく行為だから、楽しくてしかたない。私は高校時代、辞書を食べちゃうくらいドイツ語を勉強しましたが、ちっとも苦痛じゃなかった。上達したら留学させてくれると父が約束してくれた。目標が明確だったからです。自分の人生、どうして我慢するのですか。失敗してもいい。押しつけられた道ではなく、自身で選んだ道を楽しく歩きましょうよ。

「頑張る」という言葉が否定的な意味でとらえられ、嫌われていることに普段からやり切れない思いでいた。私は、「頑張る」とは、「やりたいことがあって、その目標を達成するために、多少無理をしてでも自ら努力する」という意味だと思っていた。一体いつごろから、人々は「頑張る」を「(単に)無理をする」「無理を強いられる」あるいはもっと言えば「やりたくないけどやらなきゃならないので、がまんしていやいやながらやる」という意味で使うようになったのか。

今年二十歳になる娘が中三のとき、担任の先生が「今は受験生に『頑張れ』って言っちゃだめらしいんですよ。」と釈然としない様子でこぼしていた。
「こんなに頑張っているのに、これ以上どうやって頑張ればいいの!」という受験生の悲壮な声が新聞の投書欄に載ったのを見た覚えもある。
この受験生は自分が望んでいない進路を強いられているのではないだろうか。自分で行きたい学校があって合格目指して頑張っている受験生は、「頑張れ」と言われたら「うん、頑張る。」と答えるはずだ。そうした受験生に「頑張れ」と言わないで誰にいうのかと、私は当時も今も思っている。

それよりさらに遡って、ビッグコミックスピリッツに「いい人。」(高橋しん作)という漫画が連載されていたころ(1990年代始めのころだと思うが)、「がんばらないでがんばってください。」というせりふが出てきた。
ちょっと気のきいた言い回しでいかにも名ぜりふでっせという感じで目の細い主人公の青年がドアップで言っていたと記憶するが、このあたりですでに「頑張る」の意味は取り違えられていたのだと思う。
やぼは承知で言えば、「無理しないで、がんばってください。」じゃないのかと、私は思ったのだ。

おそらく、だれかになにかを無理強いしなければならないとき、例えば上司がいやがる部下に
ちょっと無理な労働をしてもらわざるを得ないときなどに、「むりしてくれよ。」とは言いづらいので「頑張ってくれよ。」と言うようになったりしたのではないだろうか。

今回の震災においても「頑張れって言わないでほしい。」という被災者からの投書を見た。

「頑張れ」と言われて重荷に思う人は、かなり無理をさせられているのだと思う。それは「頑張っている」こととは違うと思う。

「頑張れ」と言われて負担に思う人がいるからということを気にするあまり、本来の意味で「頑張っている」人にも「頑張れ」と言えない、そういう状況に閉塞感を感じる。

山口さんが言うように「頑張る」とは本来本人にとって楽しいことのはず、あるいはそこまでは思えなくても自発的で前向きなことだと思う。
このままでは、「頑張れ」は、例えばスポーツの応援時のみに有効な限定された用語になってしまわないとも限らない。
言葉は時代とともに変化する、その時々に人がどう使うかでどんどん意味が変わっていくものだということは重々承知しているつもりだが、それでも、私としては、「頑張る」は本来の(と山口さんが言い、私もそう思っているのだが)ポジティヴな意味で使われてほしいと、願っている。

<追記>2012年12月8日
この日記は、1年以上前に書いたものなのですが、最近アクセスが増えています。ちょっと前にフェイスブックのボタンをつけたのですが、いつのまにか「いいね!」が40になっていて驚いています。
それでちょっと追記します。

本文でも書いていることですが、コメントなどを頂き、「頑張る」という言葉の意味を、私が思っていたのと違って捉えている人が多いということを改めて知りました。
内容が重なる部分もありますが、以下にまとめます。

別に辞書を引いたわけではなく、日常で普段使われる「食べる」「歩く」といったような言葉と同様、私が生まれ育った中で、周囲の人たちが「頑張る」という言葉を使っている様子から、私はなんの疑いもなく、「頑張る」とは、「自らの目標達成のために進んで努力すること」だと思っていました。これを意味Aとしましょう。
ところが、最近では、「やりたくもないことを無理矢理やらされる」という意味に変わってきている。これを意味Bとします。
意味Aで使っている人は、励ますつもりで「頑張れ」と言います。
意味Bで使っている人は、意味Aで使っている人に「頑張れ」と言われると、「いやいややっていることをさらに強いられた」と受け止めます。
意味Aで使っている人は、意味Bで使っている人の反応に戸惑い、意味Bで使っている人は、ますます「頑張る」という言葉が嫌いになるわけです。
でも、「よく頑張った」と言われるのは、意味Bで使う人もOKのようです。しかし、意味合いは違ってきます。意味Aの場合は、努力して何か効を成し遂げた人への賞賛の言葉となり、意味Bの場合は辛いことを我慢して来た人への慰めの言葉になるかと思います。

言葉のとらえ方の違いが、ズレを生じさせているように思います。

そして、その意味の変化は、昭和から平成にかけての時代の流れと共に変わってきたように思います。「がんばらなくていいんだよ」という物言いが登場したころから変わってきたのだと思います。
私にすれば、「あんまりがんばるなよ」という言い方はありでも、「がんばらなくていいんだよ」という言い方は、用法的にありえないものです。前者は寝食を惜しんで身体をこわしそうなほどに「頑張る」友人を気遣う場合などにありですが、後者は自ら望んでやっている人に言う言葉ではないからです。

「頑張る」という言葉の意味のこうした変化を、私は悲しく思います。このことだけに限っていえば、世の中の閉塞感というか、狭量さというか、そうしたものを感じずにはいられません。

それともうひとつ。
最近は、アクセスをたくさんいただいてありがたいと思う一方で、「頑張る意味」という語で検索してくる方がけっこういるのが、ちょっと気になっています。ひょっとしてそうならということで、一応書いておきます。
ここに書いてあるのは、「頑張る」という言葉の意味についてであって、誰かが「自分が頑張ることにどんな意味があるのか」について答えているのではありません。自ら進んでやっていることであれ、いやいやながらやっていることであれ、自分が「頑張る」意味は検索して出てくるものではありません。自分で考えるものです。
その過程で、そもそも「頑張る」とはどういうことなのだろう、ということで言葉の意味を追ってきてくださったのであれば、うれしく思います(^^)