映画「バードマン あるいは無知がもたらす予期せぬ奇跡」を見る

バードマン あるいは無知がもたらす予期せぬ奇跡
BIRDMAN OR (THE UNEXPECTED VIRTUE OF IGNORANCE)
2014年アメリカ 120分
監督:アレハンドロ・G・イニャリトゥ
撮影:エマニュエル・リベツキ
出演:リーガン(マイケル・キートン)、サム(エマ・ストーン)、ジェイク(ザック・ガリフィナーキス)、マイク(エドワード・ノートン)、レズリー(ナオミ・ワッツ)、ローラ(アンドレア・ライズブロー)、シルヴィア(エイミー・ライアン)、タビサ(リンゼイ・ダンカン)
★ラストのネタバレありまくりです

アカデミー賞受賞作だが、日本でのちまたの評判はそれほどよくない。なんとなくいろいろ聞いて、予めそんなに好きじゃないかもと思って見に行ったせいもあるかも知れないが、“予期せぬ”ことに私はとても面白く見た。いろいろと思いを巡らせることができる映画だった。

かつて「バードマン」というアメコミヒーロー映画で主役を演じ一世を風靡したものの、その後は鳴かず飛ばずの役者人生を送っていたリーガンは、もう一花咲かせようと、全てを投げ打ってブロードウェイの舞台に挑戦する。レイモンド・カーヴァーの短編小説「愛について語るときに我々の語ること」というタイトルからして文学的な作品を、自らの脚本、演出、主演で舞台化する。
が、公演までは前途多難、男優が怪我で降板し、代わりに見つけた男優マイクは、人気はあって実力もあるっぽいけどかなり強烈な個性の持ち主でやりにくい。付き人をしている娘のサムは、薬物中毒から立ち直り途中で親子関係はギクシャクしている。舞台の成功の鍵を握る評論家のタビサは、ハリウッド役者が演劇をやることに対して批判的だ。プレビュー公演ではハプニングが続発、追いつめられる中、やがて迎えた公演初日で、リーガンは、小道具の拳銃の代わりに本物の拳銃を手に舞台に上がる。
芝居は、リーガン演じる男が自らの頭を撃ち抜いて自殺を遂げるところで幕となる。
続くシーンでは、リーガンは自殺に失敗し、鼻を撃ってしまって入院するが、芝居はタバサの高評価により成功、娘のサムとも和解し、ハッピーエンドとなる。
が、作り手は随所に不穏な細部を撒き散らしていて、見る人が見ればこのラストはリーガンの幻想、リーガンは実は死んでいる、と思えるようにできている。いわゆる逆夢オチと私が勝手に呼んでいる結末である。(つまり、「すべて夢でした」で終わる夢オチの逆で、それまでの悲惨な展開がすべて夢であったらいいのに、ということで、「こうだったらいいのにな。」という夢のシーンで終わるもののことである。「20世紀少年<最終章>ぼくらの旗」がその顕著な例。)それまでも、リーガンはところどころで、空中浮揚をしたり、手を触れずに物を動かしたり、空を飛んだりと役に立たない超能力を見せたり、「バードマン」と話したり歩いたりしているが、それも彼の幻想と取れるように描かれている。

しかし、映画とは元々夢と幻想。映画の中では、アメコミ原作のヒーローアクション映画に対して批判的な見方が出てくるが、ハリウッド映画はそもそもは人種のるつぼのようなアメリカにおいて、言語や文化が違っても楽しめる、誰もがなんにでもなれる、わかりやすくて楽しい映像娯楽を提供してきたものだったはず。現実世界で人間が空を飛んでいるのを見れば、大人はびっくり仰天するが、幼児はなんなくそれを受け入れる。映画においては、大人もそれを受け入れる。それが即ち、「無知がもたらす奇跡」なのではと思った。
サムとマイクが、劇場の裏側にあるベランダで話すシーンが2回ほど出てくる。好きなシーンである。ここで、サムがマイクが言ったことに対して何度も「それは真実? それとも挑戦?」と尋ねる。なんで「真実」と「挑戦」が二択になるのか違和感を覚えたのだが、家に帰って検索すると、英語では、”Truth or dare?”となっている。dareは、「敢えて〜する」という意味の副詞として使われるというのが私の乏しい英語の知識だが、単語として日本語に訳すと「挑戦」となるらしい。でもメインで使われる副詞の意味から、「敢えて〜すること」と捉えれば、「それ本当? 無理に言ってない?」と言った意味にならないかしら。
つまり、ハッピーなラストは「敢えてそうしてない?」とも言えるが、しかし、リーガンの幻想と捉えるのも「敢えてそう解釈できる」とも言えるわけで、例えば、リーガンがさんざん空を飛び回った後に、タクシーの運転手が「金払え」と追いかけてくる。これを見て、空を飛んでいたのではなくタクシーに乗って移動したんじゃないかという解釈が成り立つのだが、さんざん空を飛んだあげくに力尽きてとんでもないところに着地してしまい、タクシーで劇場に来るしかなかったと解釈することもできるのではないだろうか。そのへん、映画は曖昧に曖昧に作られている。で、娯楽映画ファンの私としては、もう一周しちゃって、あのラストは「挑戦」。親子関係を修復できた娘が、父が空を飛ぶ姿を目にして値千金の笑顔を見せる。ということでいいんじゃないかと、(敢えて)思いたい。

全編1カットという手法が話題になっている。映画を作る人にとってはかなり興味深いだろうし、観る人にとっても物珍しいかもしれないが、肝心なのはそれでおもしろいかどうかだと思う。最初はカメラが頻繁に動くのが煩わしく、特に初めの頃、劇場でリーガンたちが打合せをしているシーンではカットを割って切り返さないので、人が喋るたびにカメラが回り込んでその人を写すということになり、ぐるぐる回るカメラの動きに悪酔いしそうになってしまい、こんな感じでずっと続くのは辛いなと思ったのだが、その後あんなにカメラが回ることはないので助かった。
シーンが一つの場所から他の場所へ移るとき、特に劇場内でそれが起こる場合、人が廊下などを移動するのをいちいちカメラが追っていくのだが、それがいいと思ったところが二つ。
前述のサムとマイクのベランダのシーン。ベランダに出る階段をマイクが上る。最初はどこに行くか分からないのだが、二回目は、マイクがそこを通ることで、あ、サムがいるベランダに行くなということがわかってなんかよかった。
それと、出番直前に劇場裏口でリーガンが閉め出され、ドアにガウンの裾が挟まって、パンツ一丁で劇場の正面入口まで歩かなければならなくなるという古典的なギャグのようなシーン。焦っているときに行く、それも路上にいる人々ほぼ全員の注目を浴びながら行く、でかい劇場の裏から表までの道のりがどれだけ遠いか、すごくよく感じられてよかった。

セリフ:「真実? それとも挑戦?」”Truth or dare?”