笠原和夫著「映画はやくざなり」を読む

映画はやくざなり
笠原和夫著(2003年) 新潮社


映画「仁義なき戦い」シリーズで知られる脚本家笠原和夫氏(平成14年没)の遺作集。
わが「やくざ映画」人生、秘伝シナリオ骨法十箇条、未映画化シナリオ「沖縄進撃作戦」の三部からなる。
映画は好きだが、映画関係の本を読むのはあまり好きでなく、未映画化シナリオ「沖縄進撃作戦」がおもしろいからと言われてそこだけ読むつもりで家人に借りて読んだのだが、かつて映画「仁義なき戦い」シリーズ(1973〜年)や「県警対組織暴力」(1975年)等に痺れた身にとっては、その前の二部もあまりにもおもしろく、結局一気に全部読んでしまった。


最初の「わが『やくざ映画』人生」では、美空ひばり主演映画の脚本を書いていた著者が東映任侠映画の脚本を書くことになり(「日本侠客伝」シリーズ(1964〜71年)、「博徒七人」(1966年)、「博奕打ち・総長賭博」(1967年)、「女渡世人 おたの申します」(1971年)、「関東緋桜一家」(1972年)ほか)、それから実録路線となって「仁義なき戦い」を手がけることになったいきさつなどが自身の立場からてきぱきと熱く語られている。
著者が書いた「仁義なき戦い」シリーズ作品は「仁義なき戦い」「仁義なき戦い・広島死闘編」「仁義なき戦い・代理戦争」「仁義なき戦い・頂上作戦」の4作(「仁義なき戦い・完結編」は高田宏治氏による)。「代理戦争」が脚本を書くにあたって最も苦労したという。広島事件を二つに分けて三部と四部にすることになったのだが、「第三部(「代理戦争」)を抗争に至る内紛劇、第四部(「頂上作戦」)を抗争の顛末に宛てざるをえないが、この内紛というのがとても絵になるシロモノではない。」そうで、「書いても書いても纏まりきらず、シリーズ中、完成にもっとも時間を要したホンとなった」とある。たしかにあの回は、男たちが雁首揃えて、ミーティングにつくミーティングをしているばかりの映画で、でも、それがほんとによくて、私はこのシリーズはどれも好きだが、中でも「代理戦争」はタイトルを口にするだけで血湧き肉躍り狂おしくなってくるくらい、大好きな映画である。


「秘伝シナリオ骨法十箇条」は、著者がシナリオの基本的な書き方をまとめたもの。
7項目の準備段階を経てようやくシナリオ執筆の運びとなるのだが、その際、直ぐには書かない。酒を飲んで寝てぶらぶらうだうだしてほどよく狂ったところでまずペラ70枚書く。そのあとまた2日間休んで、書いた70枚を読み返して破り捨てて、そして「鬼」になって冒頭から一気に書き上げるという。「酔うたような脚本家抱えて往生しとりますわい」とプロデューサーが言ったかどうかは定かではないが、自身が「ドラマ熱」と呼ぶ熱にうかされていた執筆中の著者は、おそらく尋常ではない状態にあったのだろうことが想像できる。
骨法十箇条の十とは「コロガリ」「カセ」「オタカラ」「カタキ」「サンボウ」「ヤブレ」「オリン」「ヤマ」「オチ」「オダイモク」。(意味が気になる人はぜひ読んでください。)
この「オダイモク」のところに出てくる一節。「・・・一言で言えば、『志』がなければならない。映画は、どんな娯楽作品であろうとも、志をもって創るものだ。わたしはそういう世界で今日まで生きてきた。」この「志」ということばに、泣けてしまった。誠に僭越ながら、映画であれ、小説であれ、漫画であれ、わたしは常々見終わって自分が不快だと思うものにある種共通するものを感じていて、それは下品だとか拙いとかいうことではなく、一体なんなんだろうかといろいろ考え巡らしたのだが、その結果、最も適切と思える言いようは「志が低い」ということではないのかと思い至っていたのだ。


「沖縄進撃作戦」は、昭和50年に書かれたシナリオで、映画化実現寸前にポシャってしまった作品。終戦後(1945年)から1971年ごろまでの沖縄を舞台に、遊人(あしばー)と呼ばれる沖縄のヤクザの抗争が、破天荒な兄貴分を持って苦悩するナンバー2の目を通して描かれる。
暴力的で骨太、敵味方入り乱れて男たちが激しい死闘を繰り広げるのは、「仁義なき戦い」を彷彿とさせるが、終戦直後の沖縄という状況がドラマをさらに激化させているように思える。
仁義なき戦い」であれば、例のあまりに有名な音楽とともにスチール写真に重ねて入るナレーションによる状況説明となるところが、こちらでは、ナレーションだけでなく内容にあった沖縄民謡や沖縄歌劇の歌詞を流すシーンがいくつかあり、激しく情緒的である。
読みながら、俳優の顔を想像したいと思ったのだが、主演の二人を演じる俳優がどうにも思いつかないのだった。

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